narunaru_narunaの日記

こんにちは、なーると申します。主にアニメやクイズゲームなどのブログです。

2015年冬コミ。

今回、寄稿&レビューしたのは以下の3つです。

 

・PRANK! Vol.2 電撃文庫評論集1993-2015

PRANK Vol.2 - LandScape Official Site

灼眼のシャナについて寄稿しました。入門編ということで、軽めに作品の魅力などについて書いています。

 

・アニメノウ 「心が叫びたがってるんだ。」評論集

d.hatena.ne.jp

読んで字のごとく、ここさけの評論集ですね。わりといつもの感じになっちゃいました。

 

・Fani通 2015年上半期

d.hatena.ne.jp

 作品レビューに参加しております。いつも通り、わりと好き勝手にレビューさせていただきました。

 

 

いずれも、思いの丈を綴らせていただきました。ご興味ある方はぜひに。

あと、適当に売り子のお手伝いをさせていただく予定です。お気軽に声を掛けて頂ければ幸いです。

 

「視聴者」という立場を利用する

最近、ブログも更新できていなかったのですが、ちょうど今放送中である、アルドノア・ゼロの2期目で少し興味深いシーンがあったので、それを中心に、「視聴者」という立場を利用しながら作品を見ることについて触れたいと思います。

 

以降、ネタバレを含みます。

「アルドノア・ゼロ」15話:旋転する罠 まで。

 

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ストーリー、とりわけ人間関係を扱う作品においては、誰が何を知っている(知らない、知らないことになっている)ということを意識しておくと、より深い視点で作品に触れることができます。登場キャラクターの関係性においては、概ね認識や事実・出来事の捉え方、価値観などの違いからギャップが生じて、それが起点となっていろいろなトラブルや事件が発生することが少なくないからです。

これ自体もなかなか面白いテーマなので、別のエントリーとして書く予定ですが、今回は「視聴者」という立場を意識した視聴方法について書いてみたいと思います。

 

当たり前ですが、視聴者は作品世界からかけ離れた存在であり、作品そのものに直接的にアプローチすることはできません。感想や激励、クレームといった形で制作者に間接的に影響を与えることはできますが、作品そのものに関わることはできません。関わってしまうと、その時点で作り手側の人間になってしまうからです(そういったケースはかなり稀でしょうが)。

それでいて、視聴者は作品中で語られる出来事については全て知っています。独り言や心の声、過去の出来事なんかも触れていますね。ただ、そこには制約があって「視聴者自身が視聴した範囲で語られたことしか知らない」わけです。推理モノなどではそこを利用して、あえてフェイクを含ませたり、叙述トリックで視聴者の盲点を突いたりといったこともあるでしょう。

ここで意識しておきたいのは、視聴者は何でも知りうるということです。逆に言えば、視聴者と同じ認識を持つ登場キャラクターはまず存在しません(全知全能の神のような存在がいれば話は別ですが)。視聴している時に、ただ出来事を順に頭に入れただけだと、誰が何を知っているかは曖昧になりがちで、いろいろな事実を見落とす可能性もあります。

 

具体的な例でちょうどよいのがあったので(アルドノア・ゼロ2期の15話)、簡単にシーンの解説をしてみたいと思います。

(以降、本編の内容を含みます)

 

この回では、スレインが義理の父であるザーツバルム卿を裏切り、殺すというなかなか衝撃的な展開が起こりますが、ここで注目したいのが最後のスレインの演説シーン。演説の中でスレインは、ザーツバルム卿への哀悼とアセイラム姫への想いを口にします。

その演説の放送を見ていた伊奈帆、彼は人の嘘を見抜ける目を持っていますが、「彼(スレイン)の言葉に嘘はない」と分析します。なお、彼の目の分析は心を読むといった超能力的なものではなく、人が嘘をつく場合の体の変化などを読み取るといったものなので、具体的にスレインがその内側に何を思っているかまでは認識していません。

 

さて。

 

ここで伊奈帆が言っている「嘘はない」とは、具体的はどの部分を指しているのでしょうか。その前に、伊奈帆が「この時点で登場しているアセイラム姫は偽物」ということを知っていることも付け加えておきましょう。

伊奈帆の視点で考えてみると、アセイラム姫に対するスレインの言葉に嘘はない、といっているわけです。どうやら替え玉を使ってはいるが、姫への忠誠は本物である、と感じているわけです。当然ですが、スレインがザーツバルム卿を殺した事実を伊奈帆は知りません。なので、嘘をついていないと認識できることはあくまでアセイラム姫についての部分のみです。

それに対して、スレインがザーツバルム卿を殺したことを我々は知っています。それを踏まえて、改めてスレインの言葉と、伊奈帆の「嘘はない」と分析したことを思い返してみると、スレインがザーツバルム卿のことを2人目の父として慕っていたということに関しても嘘はない、ということになります。

少し深読みし過ぎの可能性はありますが、スレインのザーツバルム卿への最後のセリフが「とうさん」であったことと、何とも言えない複雑な表情からしても、そういう意図で作られたシーンであると判断してもよいかと思います。

あるいは、あの罠自体は伊奈帆に仕掛けるために用意していたというセリフもあるので、今回の仕掛けで殺すつもりではなかったのかもしれません。

 

こうして見ると、スレインというキャラクターへの我々視聴者の感じ方も変わってくるのではないかなと思うわけです。いろいろな事実や出来事を重ねてみると、より広く、深く作品に触れることができるのではないでしょうか。

 

ただ、上記の鑑賞方法は集中力を要求されるので、とても疲れます。また、日常系の作品など、細かいキャラクターの機微がストーリーに絡む作品でなければ、タダの徒労に終わってしまいます。そこまでする必要があるかどうかは、作品の中身を見て決めるべきでしょう。

 

いかがでしょうか。

TLやコメントを見ながら楽しむ実況向きの作品もありますが、あーだこーだといろいろ考えながら見ると、発見があった時の嬉しさはなかなかのものです。そういった興味と余裕がある時に、一度やってみることをオススメしたいです。

 

京アニ新作における、吹奏楽モノのアニメ化雑観。

超久々のブログ更新。

最近は全然アウトプットできていなかったので、その反省もこめて、定期的に更新はかけていきたい、とまあ、また三日坊主になりそうな予感はありますが、それはさておき…

 

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京アニの次のTVアニメはどうやら吹奏楽モノのようです。

『響け!ユーフォニアム』という原作をアニメ化、放送は2015年4月ということですが、吹奏楽を中学、高校とやってきた身としてはいろいろ思うところがありそうな感じですね。放送に先駆けて、ポイントとなりそうな部分を書かせていただきました。

 

・音楽モノとしての難しさ

吹奏楽経験者ならユーフォニアム(自分の学校ではユーフォニウムという言い方をしてました)がどういう楽器かピンと来ると思いますが、吹奏楽が身近でない方にはどういう楽器かも想像しづらいぐらい、なじみは薄いと思います。そうすると、演奏シーンなどで魅せる絵作りをするのはけっこうハードルが高いのではないでしょうか。

音楽モノといえば、京アニだともちろん『けいおん!』シリーズがすぐ頭に浮かびますし、クラシック系であればちょうど放映中の『四月は君の嘘』などもありますが、バンドや、ヴァイオリン、ピアノなどと比べると楽器自体がマイナーである点が相当なハンデだと思います。それをどう扱うのか、シリーズ演出という謎の役職に就いている山田尚子さんの腕の見せ所といったところでしょうか。

 

・演奏シーンを魅せる難しさ

上記とかぶる部分もありますが、楽器自体のなじみが薄いと、アニメでの演奏シーンの動きを直感的に視聴者に理解してもらうのが難しく、そのせいで動き”だけ”で魅せるのが難しいのではないかと予想しています。

これだけだと分かりにくいと思うので具体的に言うと、ヴァイオリンは弓と弦を押さえる動きと出てくる音が直接的に結びつきやすい。ギターも同様ですね。ピアノは指の動き=音の動きそのものになりますし、手の位置が左右に動く=音の高低をイメージしやすい。

それに対して、ユーフォニアムはどうか。

ユーフォニアムにはボタンを押す箇所が4カ所しかありません。他の金管楽器も3カ所、4カ所のものばかりです。例外はトロンボーンで、スライドを前後させて音の高低を変化させるので、この楽器は絵の動きから非常にイメージしやすいと思います。

木管楽器はボタンを押さえる箇所が多いので、動きからは少し音がイメージしやすいと思いますが、主人公が担当しているのは金管楽器なんですよね。しかも低音系のユーフォニアムですから、主人公がかっこいい旋律で目立つ展開になるのは難しそうです。

また、吹奏楽では全体で40〜50人を超える人数になってしまうので、作画カロリーも高そうです。その意味では、オーケストラを主題にしていた『のだめカンタービレ』のアニメが参考になるのではないでしょうか。ただ、微かな記憶をたどってみると、演奏シーンの作画はけっこう割り切っていたような印象があります。

 

・楽曲のなじみの薄さ

吹奏楽を扱うわけなので、ジャンルとしては、当然、音楽モノになるわけですが、もう1つ難しいと予想されるのが、楽曲のなじみも薄いという点です。

クラシック系であれば、「曲名は知らなくても曲自体は知っている」というパターンがわりとあるんですね。有名な曲はドラマや映画、CMなんかで使われやすいですから、曲自体はなんとなく知っているケースが多い。なじみのあるフレーズが聞こえるだけでも関心を引きやすいわけです。

けいおん!』シリーズでは、有名曲のカバーは数えるほど(翼をくださいぐらい?)でしたが、バンドがメインということなので、制作側で楽曲を作ってしまうという手段が取れるわけです。

果たして、吹奏楽モノではどうでしょうか。

オーケストラの吹奏楽版を除けば、純粋に吹奏楽の楽曲で一般層に認知されているような曲はほとんどないのではないでしょうか。吹奏楽経験者にはよく知られているであろうアルフレッド・リードなどもほとんど知られていないと思います。アルメニアン・ダンスとかすごく好きなんですが(最終楽章にはユーフォニアムの見せ場もあり)、誰やねんそれ状態になりそうなんですよね。

じゃあ、自分たちで用意できるかと言われれば、編成が大きいこともあって、ポンポンと何曲も用意するのは相当な労力になります。現実的に考えてその辺りも厳しそうです。

 

 思いつくままに挙げてみましたが、今まで吹奏楽モノのアニメがなかったのはそもそもハードルが高かったというのも要因としてあるのかなと思います。

果たして、その問いにはどういった答えを京アニが用意してくれるのか、そういったところにも注目したいです。

 

p.s

PVの楽曲を聞く限りだと、ジャズっぽい方向にしようとしてますね。うーん、それは吹奏楽らしくはないんだよなぁ。

 

勝手に宣伝。羽海野さんのブログ。

先を越されたのでこちらも対抗して記事にしてみました。


『響け!ユーフォニアム』アニメ化に見る京都アニメーションと吹奏楽についての雑記 - 津々浦々日々上々

 

 

 

せんでん。

コミケの季節ですね。

皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

私は土曜日はお仕事です(泣)。しかも、夜勤(泣)(泣)。

晴海の花火を横目に、この日もお仕事に勤しんでいることでしょう。

 

さて、今までの人生でコミケというものにはあまり縁がなかったのですが、今年の夏コミ、「コミックマーケット84」では、アニメ・マンガ評論刊行会(代表:たつざわさん @tatsuzawa )の新刊 アニバタ Vol.4・5 ([特集]P.A.WORKS ①総論ほか編・②作品各論編 http://www.hyoron.org/anibata4_5)  に寄稿させていただきました。なにぶん、こういった寄稿は初めてなので、皆さんの反応が楽しみでもありつつ、不安もあり・・・といったところでしょうか。

 

3本。3本? 

調子こいて、3本も書かせていただきました。アフォでしたね。

3本目の校正やってる時は若干後悔が頭をよぎりましたが、それもいい思い出です。

 

最後の最後で誤植を入れなければ(泣)(泣)(泣)

大事なことなので、3回(泣)を入れました。

文意は伝わる程度のミスなので、見つけても生暖かく見守っていただけると幸いです。

 

目次はこちら。

アニバタ Vol.5 [特集]P.A.WORKS ②作品各論編 目次

true tears

 エンターテインメントのその先に さらなる高みを目指した『true tears

CANAAN

 ゲームとアニメの幸福な関係 『428』と『CANAAN』の交差点

花咲くいろは

 家族がつなぐ、想いのリレー 『劇場版 花咲くいろは HOME SWEET HOME』を見て

 

作品各論ですから、当然、作品の内容についての記事ですが、アニメーションに対する自分の想いも十分に含ませることが出来たかなと思っております。でなければ、記事にすること、それを読んでもらうことの意味・意義が見い出せませんしね。

逆に言えば、作品を見ていただいていないと、記事の内容としてはご理解いただくのは厳しいかもしれません。まあ、3本もあるから(笑)、きっとどれかは見てもらってますよね!

 

もしよろしければ、感想などを聞かせていただければ幸いです。

買ってね!

今こそ、作品本位への回帰を願う

2013年4月期もそろそろ折り返しに近づいてきました。『魔法少女まどか☆マギカ』の影響か、力の入ったオリジナル作品も多く放送されるようになってきました。アニメ至上主義者の自分にとって、アニメがオリジナルの作品は原作を気にせずに視聴できるという点でとてもありがたいのですが、一方で、脚本の出来が悪い作品が多く見られるのも非常に残念なところです。

 

2013年1月期に放送された『ビビッドレッド・オペレーション』(以下、ビビオペ)、4月期から放送中の『革命機ヴァルヴレイヴ』(以下、ヴァルヴレイヴ)の両作品は、新聞広告が打たれたり(ビビオペ)、制作スタッフの豪華さが話題になる(ヴァルヴレイヴ)など、放送前の注目度は非常に高かったのですが、放送後の評判は芳しくなく、とりわけ脚本面の出来に対する指摘が多く見られます。大ヒットを目指した両作品の脚本がどうしてここまでグダグダになってしまったのでしょうか。

 

少し話題が逸れますが、ここのところ、作画監督が多くクレジットされる作品が多いですね。EDスタッフロールがあれだけ長いとすぐ目に付いてしまいますね。作画に関しては、優秀なアニメーターさんを大量に投入する人海戦術が取れるのでしょう(当然、コストに跳ね返ってくるのでしょうが)。

これに対して、脚本に関してはこのような人海戦術が取りづらいようです。各話の担当を振り分けることはあっても、作画スタッフのようにずらずらと名前が並ぶケースは見たことがありません。シナリオの整合性が無くなってしまうため、人手を増やすことは出来ないのでしょう。なので、良い脚本を作るには限られた人数で時間を掛けることが必要になると思います。

 

制作過程の事情は(暴露でもない限り)表に出ない話ですから、視聴者にはわかりませんし、あくまで想像の域を出ないですが、ビビオペ、ヴァルヴレイヴ両作品の脚本面で荒れっぷりは、いろんな立場の人から出てくるいろんな要望を纏めるだけの時間が足りなかった(力量も足りてない?)のではないかと考えています。それに加えて、「イベントチケットをBDに付ければある程度の売り上げを見込める」「シナリオがしっかりした作品でも売り上げが芳しくない例も多く、シナリオの良さが売り上げに大きく影響しない」といった傾向があり、脚本の出来が重視されていないことも脚本軽視に起因しているように思います。

 

TVに限らず、アニメーションは商業活動ですから、売りたい、ヒットを飛ばしたいという気持ちも非常に大事だと思います。しかし、ヒットさせることに拘り、過去のヒット作の要因を詰め込んでも、大元の作品、その中心である脚本を殺してしまっては元も子もありません。

 

他にもいろいろ思うところはありますが、頑張って作品を作っておられるスタッフの皆様にお願いしたいのは、「アニメを作る上では、作品本位の姿勢を忘れないで欲しい」という1点に尽きます。自分の知る限り、大ヒット作品は例外なく作品自体に魅力があり、作品自体の魅力が大ヒットの必要条件だと認識しています(あくまで”必要条件”ですが)。作品を魅力あるものにするためには、作品の設計図とも言える脚本の出来は間違いなく重要になるはずです。

 

良い脚本、とは定義が非常に難しいのですが、一つの基準として、「作り手がやりたいことをやれているか」があると思います。この問いに、作り手が心からYesと言えるのであれば、多少のアラがあろうが突っ込みどころがあろうが、それこそ作り手の熱意で押し切ることも可能なはずです。そういった作品が、いい意味で後世に語り継がれる、そうなると信じています。

 

長くなってしまいましたが、作り手、受け手、みんなが幸せになれる、そのような作品が今後もたくさん出てくることを願っています。

 

アニメを見るときに気をつけていること(キャラの目編)

さてさて、早速最初のエントリーですが、普段、私がアニメを見ている時に気をつけていることについて書こうと思います。

アニメに興味があるという方には必ずしている話で、ツイッターでも書いたりしていますが、ストーリーをしっかり追いたい方、キャラの心理描写に注目して作品を見ておられる方はすでにご存知かもしれませんが、改めてここに書き記したいと思います。

 

アニメを見るにあたり、かなり大雑把に言えば「キャラ重視派」「ストーリー重視派」の2つに分けられますが、私は完全にストーリー重視派でして、特に脚本やキャラの行動原理、心理状態の移り変わりなどに注視してアニメを見ています。いわゆるキャラ萌えだったり、ギャルゲー的展開には苦手だったりします。まあ、昔は毛嫌いまでしていて見ることもなかったのですが、最近だとそういう作品でも楽しめていますが、基本はストーリーがしっかりしている、何度も見て楽しめる作品が好みです。

 

さて、本題ですが、

キャラの心理状態を読み解くにあたって、簡単に使えるテクニックを一つ書こうと思います。

アニメを見ていると、時々、キャラの顔上部の部分が画面の端で切れているシーンを見かけます。ちょうど鼻あたりで画面の上端が来ていて目が描写されていないケース。実は、これはキャラの絵が切れてしまったのではなく、「あえて目を描かなかった」と見るのが正しいと思われます。目を描いてしまうとキャラの表情が確定してしまい、「今このキャラはこういう心境でこういう顔をしていたんですよ」と視聴者に提示することになります。

 

じゃあ、なぜ描かなかったのか。

描かなかった、のではなく、描けなかった、そういうシーンだったということです。

 

全部が全部そういうわけではないと思いますが、間違いなくそういう傾向が見て取れます。目を描いて表情を提示するのではなく、あえて描かないことでその心情を視聴者に想像させる、そういうシーンだったという、サインなんですよね。

お話の中で、キャラの心情が非常に複雑だったり、ストーリー進行上、重要なシーンだったり、そういったシーンでこの「顔の上半分が切れている」場面が出てきます。こういったシーンが出てきた場合は、キャラの心理だったり前後のやり取りなどに特に注目してみるとよいでしょう。作り手側は重要なシーンだと位置づけている可能性が高いですから。

 

いわゆる、萌え中心の作品でも、絵コンテを担当される方によっては上記のようなシーンが見られます。こういったキャラの心理の動きがわかると、萌え系作品でもより楽しめると思います。

 

ぜひお試しあれ。

ブログ、始めてみました。

こんにちは、なーるです。

2012年も書くぞ書くぞと言いながら、なかなか始められなかったブログですが、ようやく重い腰というか手が動きました。

プライベートでは主にアニメ鑑賞に多くの時間を割いていますが、やはり140字というツイッターの限られた文字数ではなかなか書きたいこと、伝えたいことが纏まらないというジレンマを感じていました。また、せっかく140字以内に纏めても、後から見返したり系統立てて書いたりといったことには不向きですから、こうしてブログという形で残していきたいと思います。

 

頭の先から尻尾まで”アニメバカ”と呼ばれたい、そういう心境でブログを綴っていきたいと思います。

 

よろしくお願いします!